2017年03月30日

言霊 言霊学講話・ヒカリを何処で自覚できるのか

このやり方の道は禊祓として書いてあります。再肯定するのですよとは書いてございません。再肯定する段階でヒカリが差し込む。自分の中のヒカリが発散することを自覚する。

古事記に書いてあるヒカリを何処で自覚できるのか。神直日(かむなほび)、大直日(おほなほび)、伊豆能売(いづのめ)というところです。

石上神宮の布瑠の言本(ヒフミヨイムナヤコトモチ_ロラネシキルユヰツワヌ_ソヲタハクメ_カ_ウオエニサリヘテノマス_アセヱホレケ)日文四十七文字の何処がそのヒカリに当たる部分かと申しますと「ソヲタハクメ_カ」というところです。

futonorito.png心の底から「ー!」っと何をすべきかが分かってきます。その「カ」を三段階の(ウオエニサリヘテノマス_アセヱホレケ)といたします。その最高の精神構造に立ってくるアセの父韻の並びは「ア・タカマハラナヤサ・ワ」。


言霊学講話「天津神籬U」(H16年2月・会報189-04)

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2017年03月29日

言霊 言霊学講話・父母は子供を愛で包みながら行くべき道を指し示す

この人間が持っている本生の智慧の根本を神として崇めて、人間には具わっていない外のものとして信仰が成り立つ。神は「自分だ」としたら、アのお母様、イの働きの父韻がお父様、両方揃うことになります。

子供を愛で包みながらそこへ行くべき道を指し示す。それは本来の父親がする仕事でございます。父と母が完全に調和するとお子さんは育っていく。

アでは知識を「NO!」と否定しました、エの段階では肯定します。ただ、ここでは道を指し示すために肯定するその道とは言霊の原理です。言霊の五十音に照らし合わせて、今まで自分がやってきたことを「NO」と言った経験知をもう一度見直す。

これは分際がある、一定の限度がある知識だとして否定したわけです。その限度とはどういう限度なのかを五十音に当てはめる。今度は再肯定をする。これが上に上がっていく道です。


言霊学講話「天津神籬U」(H16年2月・会報189-04)

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2017年03月28日

言霊 言霊学講話・イロハとカゾ

一千万年経とうと絶対に変わらない、一つ覚えたものは人間が死んでからでも言葉としてズーッと残ります、保証します。否定して何にもなくなる時、自我と申しますのは、自分が仕入れた良し悪しの知識の総量です。それを否定したら自我がなくなり、アの宇宙へ飛び出す。

アのお母様の愛はお子さんがどんなに無茶なことをしても「よしよし」と言って、初めからガンと叱らない。何とかおとなしくさせよう、良い子にさせよう、自分の身を切ってでも子供を助けようとするのがお母さんです。

でも人間の性能はその愛だけではございません。愛と同時に、お母さんだけでは子供は生まれません、お父さんがいる。昔、「イロハ」と言えば母親のことを謂いました、父親は「カゾ」(数)と申しました。

何通りに変わったとか、数は現象の変化を表わします。永遠に変わらないものには数はございません。現象の変化に付随するのが数、その数が父親です。ということは母親を刺激して現象を表示させる父親の働きである八つの父韻が父親です。

キリスト教はこの父の名、八つの父韻を「天にまします父なる神よ、御名を崇めさせたまえ」と最高の祈りにしています。


言霊学講話「天津神籬U」(H16年2月・会報189-04)

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2017年03月27日

言霊 言霊学講話・相手ではなく自分を変える

「人を殺すなかれ」というのは真理です。どんなことがあったとしても人を殺すことはいけません。ですが、「打て!」と命令されて逆らえば、アメリカでは営倉に入れられて銃殺刑です。もしくはキャンプに送られて重労働を課せられる。

自分の持っている学問は一般全部には通用しない、ここからここまでという限界があるということを自分に言い聞かせなければなりません。その行為を禅では「無」と申します。

この考えは全般には通用しない部分的真理である、理論的な方は相手を批判する、だからぶつかり合う。自分の考えを「NO!」と否定して、相手ではなく自分を変える、これしか方法はない。

オの理論からアへ上げるには「NO!」、どんなに立派な理論であっても。でも、安心して下さい、「NO!」と否定してもその学問は消えてしまうわけではありません。人間は一度覚えたものは脳裏から消え去ることはありません。


言霊学講話「天津神籬U」(H16年2月・会報189-04)

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2017年03月26日

言霊 言霊学講話・経験知を否定する

ウからアに行きますのには、ウを合理化するのがオの学問であると申し上げましたが、オの学問は「生命とはこういうものだから、こういうことをお遣りなさい」という学問じゃない。

こういう物を見た、ああいうものを見た、その関連を自分で考えた結果を発表する学問です。ですから、これがうまく行って最後の発想の段階へ行くのが理想です、「考える」語源は「神返る」です。

神に返るということは、「ああでも、こうでも」と自分の考えの中から、人間本来の頭の性能と一致するのが学問の理想です。けれど「神返る」までに至らない考えですから、自分に都合良くても、他人には都合が良くないことに成りかねない。

ですからアの段階へ行くには、私が経験した理論は、一般人総てに通用しないということを自分に言い聞かせる。全然違うということではなく一般的なこともたくさんございます。


言霊学講話「天津神籬U」(H16年2月・会報189-04)

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2017年03月25日

言霊 言霊学講話・ヒカリの言葉の並びとは

「ア・タカラハサナヤマ・ワ」の父韻の並びは、自分(ア)が相手(ワ)に接する時の人間の知性である印象を与える力動韻は「マ」で終わります、相手がどう反応するかは未知数です。(ア・タカラハサナヤ・ワ)

ところが、先ほどの「霊諸招」(ひもろぎ)と申しまして、総てを引き寄せて諸文化が活きるように、世界文明の一役を担うように、息吹を与えて、人類文明を創造していくスメラミコトの父韻の並びが「タカラハサナヤマ」では出来ません。

このヒカリについて書こうとしたら神懸りになって、書いている自分の意図がなくなり、こういうことを書こうとして書きだしたのに、分からなくなった、だけど書ける。変なことになってしまって、どういう文章が書けるのか自分で分からなくなった。

書き上がった文章を読み返しましたら、俺よりもいいや、こんなこともあるのか、不思議にも自分で全然気が付かなかったことが書いてある、誰が読んでも分かりやすいや。(笑)ご興味あれば会報の三月号をお読み下さい。

そうしましたら、自分が今までやってきたことが、そのままスーッとヒカリを説明する人生を今まで歩ませてもらったなという答えが書かれています。


言霊学講話「天津神籬U」(H16年2月・会報189-04)

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2017年03月24日

言霊 言霊学講話・初地の仏

芸術家か宗教家はアの本生を自覚していないと「タカラハサナヤマ」の話し方は出来ません。けれど阿闍梨、阿羅漢の「初地の仏」は仏の位で言えば最下位です。では、何故「初地」なのか。仏陀でありながら本当の仏陀じゃない。それが「タカラハサナヤマ」の並びが表わしています。この言葉の並びは相手がどう思うか。

「ワ」というのは真正面に向い合って抱え込もうとする。その人を動かそうとする、相手がどういう経歴をしてどんな心を持っているかが分からない、アの位では分かりません。個人的には愛で臨みますと人の心はほぐれてくるものです。

愛の象徴として「右の頬を打たれたならば返って左の頬を打たせてこれを受けよ」、ビシャーっと打たれたら、さぞかし御手が痛かったことでございましょう、よろしければこちらも「どうぞ」、そう言われて打つ人はほとんどいません。

斬られようとしたら「どうぞ」、盗人にそれだけでは何ですから、こちらも「どうぞ」、というように宗教家には有りがちな行為です。自分よりも他人と思えば。でも、愛情は注いで大変だなと慮っても相手次第。


言霊学講話「天津神籬U」(H16年2月・会報189-04)

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2017年03月23日

言霊 言霊学講話・アは世界語

それを千日間回峰しても無事に、最後の九日間は飲まず、食わず、横にならず、眠らず、これからにして人間業じゃない。医学的に言いますと六日間眠らないと死ぬといいます。それでいて生き延びた時、人間業ではないということで「阿闍梨」の位を授かる。

この苦行を自分がそんなことをしたとは思えない。にも、係わらず生きているのは、この自分は自分じゃない「阿闍梨」である、サンスクリット語でアを知った人という意味です。アは世界語です、阿弥陀、アーメン、宗教語にはアが付きます。

阿闍梨はキリスト教の用語では「アノインテッド」(Anointed)、日本語に訳しますと「油塗られし者、アの言葉(ぶ)を自由に使いこなす(ら)人、どんな人にも慈悲と愛の心で接することが出来る人。

takara.pngアの真髄を知っている人の職業は芸術家か宗教家です。この方の父韻の並び方は、自分が居て、他人が居て、どういう手順で話すことが出来るか。それは「タカラハサナヤマ」(宝音図)と並びます。


言霊学講話「天津神籬U」(H16年2月・会報189-04)

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2017年03月22日

言霊 言霊学講話・意識で捉えられる自分は現象に過ぎない

「あいつは変なセーターを着ている奴だ」と言われて会いに行ったら、水色のセーターを着ていた、だから「あいつ」じゃないとは言えません。俺という、私という者の真実は何かと言えば、現象にあるわけじゃなくて、そういう現象が出てくる本体が私です。

それでは、その本体って何だ、こうなりますと分からなくなる。色即是空、空即是色、色(しき)は「いろ」ではございません。目に映るもの、意識で捉えるもの総て。色で捉えられないもの、これが空(くう)。

意識で捉えるものに拘るから「アンチクショウ、コンチクショウ」ということになりますが、意識で捉えられない空(天名〔アナ〕)で捉えますと世界総人口共通です。変わるのは言葉に組まれたところから個性が出てくる。

本生の空は変わらない、その変わらない段階をアと申します。アを知った方とはそういう方です。千日回峰行をした方は道なき凸凹の山道を駆け足で駆け抜ける、千日間続けるのですから、その間にどこか怪我をしたら、そこで終わり。


言霊学講話「天津神籬U」(H16年2月・会報189-04)

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2017年03月21日

言霊 言霊学講話・自我と真我

人間は過去をヨイショと受け止めてこれをどう処理するかを決めるのは現在。その現在を学問では分からないから過去だけを調べる。株屋がどうして株がわからないのか、経済学者がどうして株を買わないのか、わからないから。

じゃ、将来がわかるとはどういうことなのか。ウとオは因果、原因、結果ということです。こうするとこうなるよ、過去についての法則がそうなるよ、それがわかるのはアという段階でウとオというものがわかってきます。

そしてアの段階は仏教では「初地の仏」(しょちのほとけ)、「阿羅漢」(あらかん)、又は「辟支仏」(びゃくしぶつ)と申します。アを知っている人「阿闍梨」(あじゃり)、比叡山の千日回峰行を二回も行ったお坊さんは阿羅漢の位を授かった。

阿闍梨の位は明治時代以前では天皇の宮殿に草鞋を履いたまま上ることが出来た尊い位とされました。ただし、そのアの位に上りますと、お前は誰だい?「俺だよ、俺だよ」という自我と、本当の俺、私を、どこまでも突き詰めて行きます。


言霊学講話「天津神籬U」(H16年2月・会報189-04)

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