2009年07月11日

言霊 心で思うだけのこと

私が自然農法していた頃、野菜や動物に無言の話かけをしてましたよ。冗談でなく本気で語りかけると腹を横にして浮いて死にかけていた金魚が泳ぎだしたり、牛や馬も同じ。そんなことを頼まれもしないのにやるから。

触りもしないし無料だったから文句を言われない。心で思うだけのことなんですけど。遠隔治療もしましたしね、東京から島根県の間。相談しにきた人のお母さんの熱が下がらない。薬も処方してもらったけど全然効かない。

相談された娘さんを私はよく存じ上げておりましたから。「どうにかできませんでしょうか」って、その間に心に浮かんだことを言いました、「九時頃にお母さんの枕元に手を合わせして、二十分間座っていて下さい」。

何もすることはない、ただ手を合わせて座っているだけでいいですから。「約束ですからね」って言って電話を切った。治療したと言えばそれだけのこと。傍で聞いていた家内が「九時ですよ」、「知ってるよ」、「九時になったら座ってくれって言ったじゃないの、あなたも何かするんでしょ?」


2009.jun.談話
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2009年07月10日

言霊 謎解き

自分の中でそれを確かめませんと。ということは業を見つめる段階にスーッと意識が行く。そうしたらパズルがいとも簡単に解ける。古事記でいえば八十禍津日にあたる、業は不合理なものなんだということを知らなくてはならない。

それを知っただけでもダメ、業は生まれながらにして不合理なるものと肯定したら、次に、それでも生かせてくれている「それでいいんだよ」と大きな愛が包んでくれていることを確かめませんと上に行けない。

アの段階はここまで、ここで満足していたらまだ禍なんです、次に業を見る眼がアからエにシフトしませんと津日にならない。イエの目線で見ますと業は不合理なものじゃなくて実に合理的な本倶だと知る。

それが諸法実相ということです。空即是色、色即是空、パズルが解けないと思っていたけれど、自分が全てのことを許せる心で見れば、パズルを解く鍵は今ここにあるじゃないかって。

それは全て自分の心の中で許して確かめるしかない、でないと直毘に行けない。迷っている間は黄泉国の自分なわけです。大概の人はアが素晴らしく思えて、それ以上を求めようとしない、ウオの人たちを馬鹿にしてね、面白可笑しく世の中を渡ろうって。


2009.jun.談話
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2009年07月09日

言霊 問題を解く鍵

心の中で整理がつかない迷いごとはパズルのようですけど、そのパズルが解けないのは、考え方が違っているからでしょ、パズルが埋まって出来たと思っても、また違う答えがあるとしたら。

業が邪魔をしているように思う、でも、業というのは邪魔をするものなんです、その業は有り難いものなんです、問題を解く鍵なんですから。業をシャットアウトしたくたって出来ない、でも、その心に気がつけばいい。

業をなくすことは出来ないことを知る、それが肝心なことでね。無門関の「達磨安心」という公案はそのことを謂っている。二祖がどうしても心を捉えられないって達磨に教えを請う。

達磨は「その心を持って来なさい」、二祖は「心は不可得だから持っていけません」、達磨は「お前を安心させてやったよ」って答えた。業というものは本来不合理なもの、でも、それを知ってそこで終わらない。


2009.jun.談話
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2009年07月08日

言霊 こちらが早まるとあちらも早まる

芭蕉の辞世の句が「旅に病んで夢は枯野を駆け巡る」、途方もなく寂しくって、救いがないけれど、芭蕉だから行き着いた境地です。奥の細道へ旅立つ時の句は希望に溢れた句、「旅人と我が名呼ばれむ初時雨」と詠んで、天地に響けというばかりの勇気凛々、自分自身がたぶん勇気が失せているように思う。

孤独な心境は何度も経験しましたけど、今頃になって何を言っているのか、その孤独は自分の人生の場面、場面で違った意味があるのでしょうか。芭蕉の弟子は何人も優れた俳人になった。

老いぼれてはおりますけど、まだ何か遣り残したことがあるようで、生きながらえておりますから、鞭打ちますけど。ユダヤの仕事がまだ終わっていないからとも思えたり、こちらが早まるとあちらも早まる。

三千年前に「汝、海原(ウの名の原)を成せ」と命じた側なんですから、尻をひっぱたかなければならない、何をぐすぐすしてるんだって。でも、理由があってのことですけど何事も。


2009.jun.談話
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2009年07月07日

言霊 盤古大神

皇祖皇宗が昔のご縁を頼って「お前もそろそろ目を覚ませよ」と言ってここにいらっしゃる。丈草の俳句の木の葉は朽ち果てて水底に落ち着いたという句でしょ、その朽ち果てたことに意義がある。

人が人を呼ぶ必要はない、皇祖皇宗が私を呼んだに過ぎない。細い細いご縁で繋がっている。切れそうな絆で人間は目覚めていく。限りなく寂しく、そして孤独です。小笠原先生は「一番孤独なのは神様ですから」とおっしゃいました。

神様がいるとしたら宇宙でたった一人です。中国の古い神話に「盤古大神」というのがある。自分は何者だろうって、自分に穴を二つ開けた、眼が出来て自分の姿を見ることができた、また穴を二つ開けた、自分の出す音を聞く耳が出来た。

これは言霊学の天津磐境のことを言っておりますけど、私自身ここまで来て禊祓の何かがもう一つ足らない、孤独で泪流してもあたたかさを感じる時、天の御柱が立つ。


2009.jun.談話
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2009年07月06日

言霊 その時に考えればいい

闇は自分の心の中にあって、その闇を祓うのは自分自身であることに気がつかない限り、人類が新しい文明を創造するのが不可能に思われる。

闇を直視できる人は幸せな人です。闇というのは因縁であったり、欲望であったり、さまざまですけど、自分の将来の漠然とした不安、先のことなんて誰にも分からないこと、何かあった時はその時に考えればいい。

一日三十分でいいから自分の時間を持ちなさいというのは、自分一人になる時間、関係者と自分を断つ時間、心が対象側に行ったり、来たりすると動き回って落ち着かない。

世界人類のことを自分の力でどうこうしようなんて出来ない、考えることは出来ても。そうだったら今頃はこのような世の中にはなってないはず。考えて、考えて、昼夜もなく考え通し行くつくところが言霊の学問なんです。


2009.jun.談話
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2009年07月05日

言霊 世界人類の平和に貢献するにはどうしたらいいのか

人間は迷いだしたら果てがない、鰯の頭も信心からなんて言葉がありますけど、言霊の五十音は変わらない。心の中で神様が戦っているようなものなんです。自分の限られた世界観で世界のことは観れない。

というより考えられない、そうさせられている。「あなたは人類がどうなっているのかとか、将来どうなるのかとか、毎日の生活の中で一瞬でも思われたことがありますか?」と長年お付き合いしている人に聞いてみた。

「そういえば、ありませんね」って。自分が興味を持って活動していることに満足してしまっている。それはそれでその人の生甲斐なのでしょうけど、一方ボランティアでもって貧しい人たちのために働く慈善活動をしている人たちが、人類のことを詳しく考えているのかと言えば、井戸を掘ることや、地雷を撤去することの目的だけに目を奪われる。

世界人類の平和に貢献するにはどうしたらいいのか、テーマが大きすぎてどうすればいいのか皆目見当がつかない。それだけ闇が人の心を覆ってしまって、光の世の中を見せまいとする。


2009.jun.談話
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2009年07月04日

言霊 よく見れば私に阿弥陀が手を合わす

「夕立の後を小草の入日かな」、これもスケールが大きいですね。小笠原先生が詠んだ句に「よく見れば私に阿弥陀が手を合わす南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」、すべて無一物になった時の人間の境地が2つの俳句によく表わされている。

魂だの、霊だのって、人によって使い方が違う、概念とはそういうものでしょ、価値観の波動が合ったら、そんなものかと思い込んでしまう。こんなに当てにならないものはない。

鏡に映し出される本体がない、神様という漠然としたものに心囚われるわけでしょ、鼻先に人参ぶらさげられて走りつづける馬みたいに。馬にとっては人参が神様で、一生走り続けることになるじゃないですか。

迷うことがないから神様は有りがたいことになる。仏様は一つなのに、真宗の阿弥陀様と禅宗の阿弥陀様は違うようですよ。宗派を争そう種になる。それでいてお坊さんが「おかしい」と思わないのですから。


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2009年07月03日

言霊 水底の岩に落ち着く木の葉かな

貴方が書かれた本の内容は貴方の神様がおっしゃっていることで、それに対して私が意見を述べることは出来ませんとお返事しましたけど。気の毒ですけど、どうしようもないですね。

ウとオの世の中というのは矛盾だらけ、汚濁の中にいて、そういう自分であることを分からなければならないけれど、分かっただけでもダメ、本来なら死んでも不思議でないのに生かされていることに感謝する時、闇の世の中でも温かい愛の眼差しで見ることができたなら、初めて目が開く。

丈草の俳句に「水底の岩に落ち着く木の葉かな」、山奥の渓流に枯れた葉っぱが落ちて水底に張り付いている、その上を水が流れている、それが自分の境涯であると悟る。何とも寂しい句ですけど、詠み人の澄んだ心が窺えます。

逆立ちしてもこのような句は詠めない。この境地は寂寞としていて、それでいて、「それでいいんだよ」って、流されずにここにいることが、天国のような清涼とした趣があって。


2009.jun.談話
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2009年07月02日

言霊 コトタマと神様

ある会員の方は本を書きましたからご意見をお聞かせ下さいと原稿を送って来られた。一通り読ませてもらってお返事を書いた、「貴方とは度々ここにいらっしゃって、夜遅くまで言霊の学問を語り合ったこともありました、でも、あなたは言霊の学問を何一つ分かっていない、神様への信仰から離れられないことがよく分かりました、ご自身で考え直されてから本を出されたらいかがですか」。

自説に言霊の学問をひっつけただけのこと、自分の中の業に憑かれますと、もっと直截に言えば、自分が憑いているだけのことなんですけど、神様というものが分からない、自分の外にいると思っている。

自分が師事している霊能者が彼の神様なわけです。何か迷った時にその人に訊いて判断している。その霊能者の本になってしまう、普通に考えれば分かるはずでしょ、でも、信仰している神様の言うことと、言霊の学問と反している場合は無条件で神様のおっしゃる方を信じる。

信仰ですから根拠はありません。神様が「良きに計らえ」なんて言う、笑ってしまいますが、本人は大真面目なんですよ、じゃあ、どうして私に原稿を送ってくるんだって、アドバイスを求めるんだって、やることが矛盾しています。


2009.jun.談話
posted by 管理人@言霊百神HP at 08:10| 東京 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | コトタマノマナビ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする