2019年01月20日

言霊 布斗麻邇講座・イザナミが神避って葬ったところ

かれここに伊耶那岐の命の詔りたまはく、「愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命を、子の一木(ひとつき)に易へつるかも」とのりたまひて、御枕方(みまくらへ)に匍匐(はらば)ひ御足方(みあとへ)に匍匐ひて哭(な)きたまふ時に、
 伊耶那美命が神避ってしまいましたから、自分のカミさんを想って、泣くというのは悲しくて泣くと同時に、御枕方は母音、御足方が半母音の間を行ったり来たりして、発音したことを「哭きたまふ」と言った。

御涙に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。
 香山は書く山、火の迦具土の神と同じ意、ウの音の下に気が立っていますから、その本、イ段の音のことを言います。父韻のことですから鳴き騒ぎますでしょ、その結果出て来た父韻があることに気が付いた。

かれその神避(かむさ)りたまひし伊耶那美の神は、出雲の国と伯伎(ははき)の国との堺なる比婆(ひば)の山に葬(をさ)めまつりき。
 伊耶那美の神は行ってしまったけれど、何処に葬ったらいいかな、次から次父韻が出て来る処(出雲の国)と母音(伯伎の国)とが一緒になるから、子音が出て来るわけですから、そこに葬った。

布斗麻邇講座「捨象」(H19年2月・会報225-3了)

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2019年01月19日

言霊 布斗麻邇講座・一瞬の内に主客観世界を出たり入ったり

内宮の前に外宮をお参りして、この社会の精神的、物質的な貢献物(御厨棚)である文明創造の材料を神様に提供し、大雑把ではあるけれど整理し、これで文明を創造して下さい、下役として豊宇気比売の神様は働いております。

初めから豊宇気比売の神様があったわけではありません。天照大神をお奉りしたのは崇神天皇、それから何代か後の天皇から伊勢神宮に奉られるようになりました。

かれ伊耶那美の命は、火(ほ)の神を生みたまひしに因りて、遂に神避(かむさ)りたまひき。
 神避りたまひき、伊耶那美命は高天原から外界の客観世界へ行ってしまいます。これは、例えば「こんにちは」どなた?って出てみたら、あっ誰々さん、今は家の宿六いないのよ。「そうなの」と言って帰っていった。

「こんにちは」と言った時は客観世界ですけど、あの人何のために来たのかな、何の用だったのかな、何か記憶したことがあったかな、それは主観世界、一瞬の内に主客観世界を出たり入ったりしてその操作をしています。それが出来ないと人間でなくなってしまうかもしれません。

布斗麻邇講座「捨象」(H19年2月・会報225-3)

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2019年01月18日

言霊 布斗麻邇講座・内宮と外宮

伊耶那岐命はコトタマの神様ではありますが、コトタマを応用して社会的な責任を負った神様ではありません。社会的な責任は三貴子の天照大神(エ)・月讀命(オ)・須佐之男の命(ウ)が負いますが、三貴子を生んだ親の神様としては存在するものの、社会的な功績を上げたわけではありません。

これから、コトタマの神様である伊耶那岐命は、いよいよ自分の生命を主体としたコトタマの原理を発展させていくことになります。

この神の子は(とようけひめ)の神といふ。
 未だ不完全な音図だということは、伊勢神宮は天照大神(内宮)と豊宇気比売神(外宮)の二神が一体となって、伊勢神宮を構成しております。天照大神は文明創造の天津太祝詞音図そのものを鏡とした八咫の鏡をお奉りしている内宮。

ということは、この地球上の一切、精神と物質の創造物をそこに集めて、世界人類の文明を創造していく根本の活動をしていく神様。そして、そこで天照大神がお仕事をされる。

布斗麻邇講座「捨象」(H19年2月・会報225-3)

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2019年01月17日

言霊 布斗麻邇講座・大雑把な五十音図

次に和久産巣日(わくむすび)の神。
 今度は五十音の一音一音を行に沿って入れてみた。途中は何だかゴチャゴチャしているけれども、何となく五十音が入ってしまった、何となく枠で結ばれた。(和久産巣日の神)シメシメと、漠然とはしていますが、結んだことは確かだ、ということになります。何となく枠で結ばれた。

父韻の順序が分からないのでスーッと並んだわけではなく、お湯が湧くように未だ不安定なものですよ。これは天津菅麻音図によく似ています、菅麻音図は八父韻の順序がわかりませんから。

母音アオウエイと半母音ワヲウヱヰを並べて、アが付くものを母音と半母音の間に並べて、他のオウエもアにならって大雑把に完成させた初めての枠組みを天津菅麻といいます。

これで大雑把ではありますが五十音図が出来ました。今度はこの音図に則ってイザナギの神様の自己精神の整理作業がこれを土台に展開してまいります。そして最後に天津菅麻音図と命名される伊耶那岐命の音図になります。

布斗麻邇講座「捨象」(H19年2月・会報225-3)

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2019年01月16日

言霊 布斗麻邇講座・言と霊がうまくのっているか

神の名は金山毘古(かなやまびこ)の神。次に金山比売(かなやまひめ)の神。
 手繰り寄せてコトタマですから言と霊がうまくのっているか、まず、言葉(コト)の方を見たら「いいな」、金山毘古の神、霊(タマ)の方の全部を金山比売の神。

次に屎(くそ)に成りませる神の名は、波邇夜須毘古(はにやすびこ)の神。次に波邇夜須比売(はにやすひめ)の神。
 組む素(くそ)は名前を付ける素になる、組んで物の内容を表わす、波邇夜須毘古の神。一つ一つのコトタマが書かれた通りになっているかどうか。言葉として発揮されて、そこに心が乗っかっているかどうか。波邇夜須比売の神。「波邇」とは粘土板に字を彫り素焼きにしたものが、安らかに備わっているかを調べて、コトもタマもちゃんと備わっていると確認する。

次に尿(ゆまり)に成りませる神の名は弥都波能売(やつはのめ)の神。
 尿(ゆまり)は「五埋まり」の謎、五つの母音が五つの枠の中にはまっているな、ということを創造し始めた。五十音を集めて整理しようとした時に五母音をどのように配置するに、軽きものは天(ア)、重きものは地(イ)、残りの母音オウエがその間に入る目処が立ちます。

これでいいのかな、弥都波能売とは三つ葉の目の謎であり、オウエ三母音が位置する処の見当がついたことになります。

布斗麻邇講座「捨象」(H19年2月・会報225-3)

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2019年01月15日

言霊 布斗麻邇講座・呼びかけ、分かれ、分かれて

そうすることで主客が分かれて現象が出てくることによって、それが又一体となる。その法則がここで明らかになってきます。コトタマ学と申しますのは一つのことを呼びかけて分かれて、分かれた所から又、呼びかけて、「あ、そうなったな」、その呼びかけたものが連結して目出度し、目出度しとなるまでに、そういう経過を辿ります。

経過の中に色んな構造が現れてきます。その時に八拳、九拳、十拳剣の三つの現象が出現いたします。何故、科学原理が八拳なのかと申しますと、そういう所から来ているのでございます。それも頭の端に入れておいて下さい。

科学的原理で押し通す部分もあるけれど、科学的原理(八拳剣)だけでは決して押し通せない人間の構造もあるということ。豊受姫の神というのが出てきますので、ちょっと読みます。

この子を生みたまひしによりて、御陰炙(みほどや)かえて病(や)み臥(こや)せり。手繰り寄せる神の名は
 火の神様を生んだので伊耶那美命が「御陰炙(みほどや)」である子を生む処を火傷してしまい、病気になってしまった。手繰りは手で繰って寄せる、生んだ五十音をさて整理する時に、麻雀パイを集めるように、という簡単な意。

布斗麻邇講座「捨象」(H19年2月・会報225-3)

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2019年01月14日

言霊 布斗麻邇講座・九拳剣

そうしますと、この十番目の客体(ワ)は動く人もいれば、動かない人もいる。これを九拳剣と申します。主体(ア)が自覚されていることはわかりますね。その勢いが客体へ向かって進んでいって、客体が「いい音楽だな」と聞いてくれるか、「今時、あんなものをやらなくてもよかろうに」と思って聞いてくれるか。

聞く側(客体)によって効果が違ってきます。芸術というもの、または宗教でもそうですが、同じ現象が誰にとっても共感を与えるとは限らない、これ(宝音図)を九拳剣、アタカラハサナヤマで切れてしまってワが来ない。

誰もが共感し、誰もが影響されて、誰もが喜ぶと言うと、アタカマハラナヤサワ(天津太祝詞音図)の十拳剣が、主客が喜ぶ方法になります。というように人間は知らず知らずの内に捨象というやり方で区別している。

そのように一つのことを聞いたり、聞かなかったり、このコトタマの原理を活用しているのです。そのことを頭の片隅に置いて下さい。そうしますと、八拳剣、九拳剣、十拳剣というものが明らかになってきます。

布斗麻邇講座「捨象」(H19年2月・会報225-3)

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2019年01月13日

言霊 布斗麻邇講座・現象としては同じことをすれば同じことが起こる

ピシャ!っと私が殴ったとします。ぶたれた方が「痛てぇー」、殴り返され、ピシャっ殴られて「痛くないよ」と言ったら、どうしますか?どちらかが嘘をついている。本当はどちらも痛いはず。

現象としては同じことをすれば同じことが起こる。誰が、ということを言わないようにしませんと科学原理に外れますから、それを捨象と申します。ここでもって言葉の原理というものが、心でもって構図が違って来る。

音楽、一所懸命演奏していますと、誰が演奏しているのか、誰の曲を演奏しているのかも、わけの分からないものを演奏しても良くも悪くもわからない。誰が誰の音楽を、という主体側を見て、それを聴いた人にどう聴こえるか。

良い音楽を聴いたら誰もが感心する、聞き惚れる、そうしますと「誰もが」が要らなくなる。その説明がうまくなければ、ある人は聞き惚れたけれど、ある人には聞き惚れなかった。そうしますと音楽は芸術作品として100%、人に効力を表わすものではないという結論が出てきます。

布斗麻邇講座「捨象」(H19年2月・会報225-3)

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2019年01月12日

言霊 布斗麻邇講座・八拳剣

アインシュタインの相対性原理というのは、何故「アインシュタインの」と付けたか。未だにアインシュタインの相対性原理の論争がある。ほぼ、真理ではあるのだけれど、そうでもないところもある。今でも論争がありますので、相対性原理だけでなくアインシュタインのが付きます。

本当言うと「アインシュタインの」を付けないのが科学の本筋ですね。難しいことを言うようですが、それに対して、自分が相手に対して「あんなことをした奴が憎い」、その「憎い」と思うことはどんなことなのか、どうして思うのか。

何か憎いことをやった人間、そのものを捨象します。あいつがやったから憎いのではなく、誰がやっても憎い。と同時に自分も「憎い」と思った。誰が見たら「憎い」、誰も見ても「憎い」と思う人間を捨象します。

そうしますと現象だけを観る、誰が、誰をという主客は何でもいい。両方共科学の立場で言えば、それも覚えておいて下さい。そうしますと、科学の音図(赤珠)、欲望の音図(天津金木)というものは、アとワがあるけれど、ない。

主客を切って(捨象)しまいますから、その考え方を八拳剣と申します。科学を勉強する方法は主体が誰でもかまわない、客体が誰でもかまわない。そういう現象が起こった時には誰もがするやり方でする。そうしませんと科学ではありません。俺の科学になってしまいますから。

布斗麻邇講座「主客」(H19年2月・会報225-2了)

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2019年01月11日

言霊 布斗麻邇講座・科学に個人はない

この場合、人間と物との関係は複雑な関係になってきます。自分という人間は物という客体を研究しようとしますと、ただ、研究しようとしても何も進みません。では、どうしたらいいのか、例えば黒ばかりのものに、「黒って何だ?」と一つの条件を付け問いかけますと向こうの黒が答えてくれる。

すぐには答えてくれないかもしれませんが、科学検査した結果、そんなの当たり前の話で、しかし、そういうものを「色」で限定してしまいますと、色以外のものを人間が捨ててしまうことがある、捨象と申します、現象を捨てる、捨象しませんと研究が出来ない。

「黒」を研究しようとすると黒以外の研究は捨てなければならない。と同時に科学は「自分とは何ぞや」も捨象してしまいます。お分かりになりますか?自分が「ポン」という人か、「ピン」という人なのか、どちらでもかまわない。

ポン博士が研究したら「黒」だったけど、ピン博士が測ったら「紫」だったというのは、あってはならないこと。だから研究者が誰だということを設定してはいけないこと。それを証拠に特別なことを除いて、科学は何々の原理というのに人の名前は付けません。

布斗麻邇講座「主客」(H19年2月・会報225-2)

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